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会社の履歴書

1977年

高橋知之、徳島大学を卒業し医師免許を取得。

1980年

癌研究会附属病院外科勤務。主に胃癌と乳癌を担当していました。 たくさんの乳癌手術を経験するうち、切り取った乳房の再建手術に興味を持つようになり、形成外科の勉強をはじめました。

1988年

妻である高橋眞理子医師、東京池袋高橋医院(眼科・形成外科)を開設。
同年末に偶然訪れたピアス皮膚炎の患者から相談を受けて形成外科で使うシリコンを応用して、 シリコンリング治療を試みたところ10年来の悩みが1週間で解決。 その患者さんの口コミでピアスの患者さんが時々くるようになりました。

1989年

1月に2人のピアッシング希望者がはじめて現れました。 局所麻酔をして持参した18金ピアスを装着しましたが、2人とも2週間くらいして化膿してしまいました。 シリコンリング治療でピアスができるようにはなりましたが、大いに反省して医療用具の卸会社に相談。 ピアサーなるものを紹介されました。
ピアサーの社長の勧めもあって当時入手可能であったファーストピアスを全種類(50種)を院内に掲示したところ 大評判になってピアッシング希望者が殺到するようになりました。
ところが10年間無事故更新中のピアサーとのキャッチフレーズにもかかわらずトラブルを起こす人が後を絶たず、 頭を抱えることになってしまいました。
普通はトラブルが起きると開けたところとは別の病院に行くので無事故と思っていただけなのですね。 トラブルが起きてもホールをつぶさずに治すことだけは励行していましたので皆さん帰ってこられて、 この方法の欠陥がわかったのです。そうこうしているうちに何社かのピアスメーカーと取引するようになりました。 ピアスが耳に埋まってしまうことも何度か経験し、 ピアスの軸が短いことがトラブルの最大の理由と考えて各社に長い軸のファーストピアスの製造を提案しました。 7月のことです。

1990年

「現在のままで安全性に問題はない。トラブルが起きたとすれば、それはアフターケアの問題であって ピアサーそのものを改良する考えはない」との正式な回答がありました。他社も同様でした。3月頃のことです。ピアスメーカーが造ってくれないのなら自分で企画しようと思い立ち、引き受け手も決まっていないままピアッサーの 開発をはじめました。ピアスはめがねのねじを作っている会社にお願いしました。 プラスチックを成形する金型にお金がかかり、 試作品(後にセイフ ティピアッサー3型と 名づけられた)が出来上がったときには500万円ほどの貯金を取り崩していました。
完成した試作品を希望者にテストしたところなかなかよい結果が 出ました。でも製造を引き受けてくれるところはありません。 ひょっとして日本にまだ入ってきていないメーカーなら興味を持ってくれるかもしれないと思い、 アメリカにすんでいる知り合いにピアスのメーカーを探してもらいました。
そうして見つかったのがスタデックスという会社です。

1991年

短いピアスで化膿した人の治療の前後の写真と試作品を持ってアメリカに飛びました。2月のことです。 向こうの社長は大いに気に入ってくれて製造を引き受けてくれるようになりました。
出来上がった製品を受け取る会社が必要となりました。夢は大きく、「日本ピアスシステム」と名づけました。6月です。
アメリカに送った金型を修正する必要ができて製品の到着が送れることがわかったので、 とりあえずスタデックスの現行商品から販売することになりました。 使い捨てタイプのセイフティピアッサー1型と 病院用の2型です。 仲のよい何人かの医者が買ってくれる従業員なしの形ばかりの会社ですが、医者仲間の口コミで徐々に販路は広がろうとしていました。 ところが12月になって大変なことが起こりました。
同じく使い捨てタイプのピアッサーを製造しているアメリカの会社が12年前に取った特許を1型が侵害していると申し立ててきたのです。 もともと1型はオランダの会社が発案したものをスタデックスが買い取ったものでした。 店の人が穴をあけてあげるのは、日本では医師法違反なので自分でできる使い捨てピアッ サーの需要が高いのですが、 欧米では2型の病院用の機器を使って店で開けるのが普通です。 ですから、使い捨てピアッサーの市場は、権利意識の強いアメリカで互いに12年間も気づかなかったくらい小さな市場だったのです。 それでも特許侵害は事実でしたので、急遽販売を取りやめることになりました。 1型は3型の完成までの繋ぎのようなものでしたからそれほど困った問題ではありませんでした。 問題は3型が特許に抵触するかどうかです。 特許の専門家(弁理士)に相談したところ一部灰色のところがあるが大丈夫だろうとのことでしたが、 クレームをつけられるのはいやなので新たに設計しなおすことにしました。 結果的にはもっと使いやすいものができたので、今はクレームをつけてきた会社に感謝しています。

1992年

アフターケアのためのピアスケアジェルの発売開始(2月)。
まぼろしとなった3型に代わって、現在のピアッサーの原型である4型が完成しチタンタイプの ロングピアスを入れて発売開始(11月)。

1993年

ピアスの専門クリニックとして東京渋谷高橋医院を開設。

1994年

スタッフ10人で実質的な活動を開始(2月)。
大阪支店開設(11月)。

1995年

セイフティピアッサー特許取得(12月)。

1996年

青木基夫医師の協力のもとに、大阪支店を移転拡大し関西におけるセイフティピアスシステム普及の本拠地とする(9月)。

1997年

1998年

2000年

嶋田園恵医師が参画。千葉市にて、しまだ医院を開設(10月)。

2001年

2002年

2003年

ジェイピーエスメディカル有限会社をジェイピーエス千葉有限会社と改組・社名変更(8月)。
ジフパーマネントスコーチ有限会社をジェイピーエスメディカル株式会社と改組・社名変更(8月)。

2004年

2005年

韓国に関連法人NaviclinicInc設立(3月)、コンタクトフィルム(ファッションコンタクト)の企画開発をスタート。
日本ピアスシステム大阪支社を四ツ橋に移転(9月)。
コンタクトフィルムが完成、国内販売開始(9月)。

2006年

2007年

2008年

軟骨用ピアッサーを発売(7月)。

2009年

度なしコンタクトレンズを高度管理医療機器として規制しようという動きが具体化し、経過措置期間後2011年2月以降は、国の承認を得た製品のみ流通可能になることが定められました。コンタクトフィルムはこの経過措置期間内も引き続き販売を行なえる認可を取得しつつ、高度管理医療機器への承認申請準備も同時に始めました(11月)。

2011年

度なしコンタクトレンズが高度管理医療機器として規定され、厚生労働省の承認を得ることが義務付けられ、コンタクトフィルムは規定に則り承認を取得しました(2月)。
ピアスの新製品開発も引き続き行ない、透明ピアスのクリアワークス軸の太い14G用を追加発売しました(3月)。
創業からはや20年を迎え、社名を「JPS株式会社」と改称。ロゴマークも刷新し、新たな気持ちで21年目に踏み出すこととなりました(6月)。



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